【由縁ー白山神社とは?】
白山神社は、遡ること1300年以上の昔鎮座してよりこの地にて鎮守としてこの地に住む人々と共にあり、中世以降は鎌倉街道を往き来する人々に安心を与え、また疱瘡を始めとする疫病封じの神として崇敬されて来ました。


【御祭神ー白山神社の神さまとは?】


大己貴命(おおなむちのみこと)


伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

菊理姫命(くくりひめのみこと)

 大己貴命

大国主命の別名、葦原中国(日本の国土)を開拓された神である。当社は古来黒田神社と号し黒田郷の開拓の祖神として同神を祀ったと思われる。
境内より白鳳時代の祭祀用土器などが出土したこと、境内西北には江戸時代中期まで円墳があり、土地の尊崇を集めていたとされるのがその考古学的裏づけになると考えられる。
 中世に黒田合戦(土岐家の内乱)などで黒田郷が壊滅的打撃を受け、当社も社殿消失した後その復興過程で、当時隆盛であった山岳信仰の影響を受け加賀の白山より伊邪那岐命・菊理姫命を合祀して以後、白山神社と号した。


 菊理姫命と
伊弉諾尊

菊理姫命
は日本書紀巻1の第5段に登場する。それによると国造りの最後に火の神を生んでこの世を去られた妻伊邪那美命を追って黄泉の国に赴いた
伊邪那岐命は、妻を連れ戻そうとするが既にその体には蛆が湧きこの世の体ではなかった。見ないで欲しいと懇願する妻神の願いを破り、その姿を見たことにより離別を言い渡される夫神はなおも連れ帰ろうとして問答が続く、そこへ現れたのが菊理媛尊であった。
 このときの言葉を書記は「
菊理媛尊、亦白す事有り」とのみ伝える。
菊理姫命が何を仰ったはわからないが、この後「
伊弉諾尊聞しめして善(ほ)めたまふ」とある。
 この言葉の後、伊邪那岐命は妻神の元を離れ、辛苦の末に現世に戻り禊をした後、小戸の再び国づくりに向かわれることとなる。このことから菊理姫命は
人の繋がりを掌る神であったととも思われる。

 結ばれるべき運命を良と受け入れ、生ある限り縁(えにし)を保つことが人の人生であることを菊理姫命は今に伝えていると思われる。


☆文中、祭神名の字の使い方は神社記録と古典の記載とで異なる場合があります。

【境内神社】


稲荷社(黒田稲荷社)

祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)。
素盞嗚尊(すさのをのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)との間の. お子さまで衣食住を司る神。 稲の精霊であり、穀物の神として古くから崇敬され、一般に稲荷大神(いなりおおかみ)と信仰されている。
当地方は黒田と称される(黒は田の豊穣を表す意味)穀倉地帯であり、古来稲の神が崇敬されたのは自然なことだと思われる。
昭和四十七年社殿改築時より黒田稲荷社の名で親しまれる。




宇賀社  

拝殿右手より見える三社神殿の一社。稲荷社と同じく祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)

御嶽社

同じく三社神殿の一社、 祭神は御武大神(木曽の御嶽の山の神を祀る)。

竜神社

同じく三社神殿の一社、祭神は竜神。白山神社の北東は沼に近い低湿地であったため、そこを通る木橋は不安定であり馬が沈むことが度々あったとされる。
地域の人々が竜神を祀り通行の安らかを願ったと思われる。


熱田社
境内左の奥のお社。尾張地方は、熱田神宮の領地が多く、その信仰も格別厚いものがあった。近代まで熱田講と呼ばれる崇敬組織が当地にも多くあった。それが由縁で熱田社がお祀りされたと考えられる。